三日坊主日記

チェコ留学に関する事を飽きるまで続ける予定。つまり、飽きたらやめる。

サブカルバンドのアルバムタイトルみたいなことを書こうと思ったけど考えるよりも先に羞恥がやってきた

三日坊主日記と名付けられた本ブログも今日の今日まで放置されていたが、いざ読み返してみると、実のところ三日以上に渡って特にわざわざ書く必要の無いことがつらつらと連なっている。もっとも、この世においてわざわざ書く必要があることと言えば、法律とアルコール度数程度ではあるが。

 

先日、映画を見た。映画というのは活動写真のことであり、活動写真とは写真、すなわち画像データが活動することである。と、時の流れを逆行しながら説明するとより意味が不明瞭になるだろう。情報量の多さと概念理解は比例しないのだ。

 

「ザ トライブ」と題された映画を見て来たわけであるが、このタイトルはおそらくそのまま「the tribe」と変換した方が具体的なイメージが出来るだろう。「その部族」。これで理解出来たらすごい。筆者の能力の範囲外ゆえ、理解のりの文字にすら手が届かない。意味がわからない人はオフィシャルサイトへ飛びましょう。

映画『ザ・トライブ』オフィシャルサイト

 

端的に説明すると映画内で使用されるほぼ全てが手話であり、それに対する字幕等は一切無い。完全に手話のみ、手話理解者を除くほぼ全ての観客にとって、作中で設定された台本がいかなる内容であるのは一切不明なのだ。手話に関しても、おそらく日本式でもアメリカ式でもなく、ロシア式(ロシアかウクライナ制作の映画だったから勝手にそう決めつけているが、実際のところは不明。だって手話わかんないもん)なので、ロシア系の手話理解者以外には意味不明の映画であった。

 

映画内において、監督は意図的に言語無しで、つまり映像のみで理解出来るパートと、映像のみでは容易に理解出来ないパートを使い分けていたが、それこそが本作に力を与えているのでは無かろうか。つまり、わからないことによって観客は作品に入り込めるのだ。とはいえ、あらゆる場面を理解出来なければ、観客を引きつける事は不可能だ。何もかもが描写され、説明という説明で埋め尽くされた昨今の邦画とは対照的に、作品中のコアの一つである物語を作者は観客に提示していない。いや、提示はしているが、その全貌は明らかにしていない、物語という大きな物体の影を映し出すことで、そこにあるコアの存在に示唆するにとどめている。これは観客に対して、作品中の情報を限定的に供給するために行われている。したがって、この限定的な作品理解によって、観客はより作品を知ることを渇望させられる。だからこそ観客は作品に引き込まれるのだ。

 

雑感

どつき合いながら手話で会話しているシーンでエミネムのルーズユアセルフの手話版を思い出した。ダンスみたいでかっこいい

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